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音の聴きどころ
日常、世の中には音が氾濫していてその全てが耳に届いているはずなのですが、私たちはその音の中から自分に必要なものだけを選択して聴いています。赤ちゃんはまだ意識的に音を選択することができないので、雑多な音が全て聴こえてしまいます。それが成長するにしたがって意識的に音を選択するようになってきます。その成長する年頃を狙って音楽を習い耳の訓練をすると、より音楽的に音を選別できるようになってきます。
6歳までに絶対音感がつくと言われています。絶対音感の有無、その善し悪しはともかくとして、その頃に音をより意識的に聴く訓練をすることは、音楽を一生の友とする上で大変重要な事です。今音楽を習っている子どもたちには是非とも演奏技術とともに日頃から聴く力を訓練してもらいたいと思います。
さて、聴くということについてもう一つの注目点ですが、鍵盤楽器をいくつか演奏していると、発音機構の違いによって聴き所が変わるということが実感されますので、その点をごく簡単に大雑把にかいつまんでお話ししたいと思います。当然ながら音の「アタック」→「音の鳴り具合=ひびき」→「音を止める瞬間」を注意深く聴き取りながら演奏しますので、その順番でお話ししましょう。
アタック
まず、音を出す瞬間=アタックが各楽器でとても違うわけです。「ポッ」だったり「ビン」だったり「ポォ」だったり「トゥ」だったり…。ともかくアタックに細心の注意を払うことは当然なのです。けれども注意の度合いが違います。通常のオルガンの場合は鍵盤を微妙に押してしまうと音程が狂いますから、押すときには一気に行きます。チェンバロだったら弦に羽軸が引っかかったことを鍵盤から感じ取れるので、手の重みなどで弾くスピードを調節します。ですからこの両者はアタックを抜きには語れません。
問題はピアノ。実に様々なことをやっているのですが、オルガンやチェンバロに比べてアタックの意識は少しだけゆるいと言っていいと思います。ハンマーの振り上げで鳴らしているという動きの大きさや構造、楽器として平均的ということが一つの尺度になっているからなど理由は様々ですが、オルガンに比べればかなりグズっとしたアタックもあり得ます。タッチという指の当て方のほうにアタックが含まれてしまうような感覚もあります。
音の鳴り具合=響き
響きについていえば、オルガンは建物やホール全体に響く音や残響、そしてどんなパイプを組み合わせるか、どんな共振が起こるか、とにかくすべてを計算しつくされていると言えるでしょう。チェンバロは弦と響板と共鳴箱の中を行ったり来たりして、どのように広がるのかを計算してありますし、響板の削り方などで広がりも響きも変わってきます。しかし音量と音の減衰については、とびきりの美しさはあるものの物理的には限界があります。さてピアノになるとこの響きに各社のこだわりがあるわけで、高低のバランスや弦の強さによる音の持続時間の長さなどを有効に生かす工夫のしどころです。ピアノを弾くときには、たとえアタックが問題の元であったとしても、この響きをどうするかという言葉で代用というか包括してしまうことがあります。
音を止める瞬間
そして音を止める瞬間=オフについては、何と言ってもオルガン。ずっと音が出続けているわけですからその音を無くす衝撃は大きいです。ホールの残響があるにしても、耳をそばだてて神経をつかいまくります。それにほんのすこしの風圧で音程が変わりますので、それも聴いています。チェンバロやピアノは音程は一定ですし、音が減衰してくれますから話が違ってきます。チェンバロもオルガン同様にオフの瞬間がよく感じられますので、音の長さや指の取り方に気を使いますが、衝撃ははるかに少なく感じます。もちろん演奏効果ということで様々な場合が考えられますが、たとえば一音だけを鳴らした場合には、鳴った瞬間から減衰が始まっている音に対して小さなダンパーフェルトでプッと止めるのですから想像できる範囲です。
そしてピアノはもっと習慣的にオフをしている感覚です。確かに様々なオフの仕方を聴いて、指にも神経を使ってはいるのですが、身についたものと音の長さや勢いとして判断していることが多く、オフに向かって神経を奮い立たせて集中するというよりは響きの中で考えているように思います。
私の拙い言い方では表しきれないもどかしさがありますし、語弊も異論もいろいろあると思いますが、最初に言いましたように簡単にごく大雑把に言えばこんなようなことです。
それぞれの楽器の発音機構や鍵盤を押したり離したりする瞬間に使う神経が違うため、その楽器の音のどこを聴いて演奏するかということに大きな違いが出てきます。もちろん音は全て出初めから終わりまで1音残らず神経を配るにしても、アタック、響き、オフそれぞれの聴き所と聴き具合が違うのです。
無音の瞬間
もう一つだけ、各楽器とも音の無い瞬間において、耳は音を聴く以上に使われていることをつけ加えなければなりません。音楽の中で音が無い時間がどれほど重要か、その扱いが演奏を左右するとも言えるほどです。
このように各楽器で音のどこを聴くかを微妙に変えながら演奏しています。この耳の使い方の違いは個人差もありますので、演奏に大きな影響が出る点です。自分も耳と指の結びつきをより深めていけたらと思いますし、特にピアノの生徒さんたちにはこの点を強調していきたいと考えています。
2011年10月24日
ピアノを円運動で弾く
ピアノを習うときにこのようなことをよく言われます。
「指を強くしましょう」
「手のひらは卵やボールをつかむような形にしましょう」
「手首はやわらかく、肘や腕は落とさないようにしましょう」
などなど微細に渡る注意を払ってきますが、そのことの本質と具体策をより深く考えたく思っていました。
そして自分も生徒もそのことをよりわかりやすく、効果的に実践できる方法はないものかと色々と試みてきました。楽器の側からも考えを進めることによって、演奏における自由度を広げようとも考えています。
レッスンでは最初歩から成長に応じて腕や指のことと音楽や楽器をより深く結びつけることに取り組んでいくのですが、それに於いて多くの経験を経てようやく最近、自分が考えたり試行錯誤してきたことに一本の道が見えてきました。果てしないけれど力強く歩める道だと思います。
楽器から学ぶ
幸いにもチェンバロやオルガンやフォルテピアノなどと深く関わることができて、その上でピアノを考えられる環境にいます。鍵盤の見た目はどの楽器においても所謂「白鍵」と「黒鍵」が並んでいることに違いはないのですが、発音機構には各楽器で見た目から想像をはるかに超えた大きな違いがあるために、それぞれのテクニックが必要になります。
特にチェンバロからフォルテピアノに移行したとき、フォルテピアノからモダンピアノに発展してきたときには、新しい楽器へ対応する必要がありました。そのため多くのメソードが書かれ、楽器を扱うためのマニュアル的な練習方法が開発されてきました。それが最良かどうかはともかく、テュルク、クラーマー、クレメンティ、ツェルニー、リストなどなどあげたらきりがない先人たちが練習方法と奏法を考案してきたのです。
いくつかのメソードに従ってフォルテピアノを練習してからモダンピアノに行きついてみると、腕や体の使い方の違いに本当に驚かされます。
言葉としては「昔は腕を使わなかった」とか「ベートーヴェン中期で腕を動かし始めた」とか子供の頃から聴いたことではありますが、「こういうことだったのかぁ」という実感は歴史的な楽器を経験したおかげでつかめたものです。そのことを少しでも分かりやすく多くの方に伝えていけたらと思っています。
ハンマーが鳴らしダンパーが止める
ピアノは「鍵盤」に加えた力が「中間レバー」を突き上げ、とても大事な「エスケープメント」という部分などを経て「ハンマー」というものに伝えられます。合理的な仕組みによってハンマーは跳ね飛んで行き「弦」に当たります。弦はハンマーが当たったことによって振動して音が鳴ります。ハンマーはすばやく元の位置にもどります。
指が鍵盤から離れて力を加えなくなると、「ダンパー」というものが振動して鳴っている弦を押さえ込んで強制的に振動を止めます。それで音が止まります。
(メカニックについては今後詳しく解説する機会があると思います)
ピアノは円運動
鍵盤から弦に至るまでの力の伝わり方を考えると、例えばチェンバロは、弦をはじく瞬間は爪が垂直方向から弦に触れていきます。それが引っかかってはじけてまた下がってくるという発音動作を支えているジャックは上下に動くので円運動ではありません。
いかに強力に力を加えていくかというものではなく、爪が弦をはじく瞬間をいかにデリケートに指が感じるかということのほうが重大事だと思われます。
ところが、ピアノは鍵盤から弦までのほぼ全てが円運動をしており、ハンマーをどのような勢いで跳ね上げるかを力加減とスピードで調節しているのです。
少し横道にそれますが、私はこの指の感じ方を通じて、フォルテピアノの中期頃に楽器と奏者の立場が入れ替わったようだと感じています。それは錯覚なのかもしれません。やはり楽器から受けるものは大きいに違いないし、楽器を感じながら弾くことは確かにあるのです。でも楽器からのベクトルの一部が、奏者側からのベクトルに取って変わった部分が存在していると思わずにはいられませんし、そう思うことが錯覚なのだとしたら、そのような錯覚を起こさせる楽器に変化あるいは進化して来たと言えるのではないでしょうか。
ここは小さいようでいてかなり重要な問題です。モダンピアノを弾く人の多くにこの錯覚があって、「つもり」や「夢」というようなものが大きくなりすぎることがあるのです。音はもちろん聴こえていても「つもり」によって耳が慣らされてしまい、奏者には主体的な思い込みによって矯正された音が聴こえてしまうというような状態です。吾が身も含めて自嘲したい点です。
円運動に話しを戻しましょう。ピアノの中身、つまりメカニック部分は円運動でありますから、そこに力を加える腕から指などの一連の動きも円運動を意識した動きをするべきだと思います。鍵盤にぶつかるでもなく叩くでもなく円運動の一部として力を加えられる動きとはどんなものでしょうか。肩甲骨から肩、腕、ひじ、手首、てのひら、指のそれぞれの関節、指先に至る動きと力の入れ方を繰り返し確認して考えていくべきです。
レッスンの際には、それが「音楽をしたい」気持ちを自由に解放する鍵だと思って試みています。また、日本人特有の体の動きというものにも注目しています。指については、鍵盤に与える勢いとスピード、離すときの音の止まり具合と次の音への移行にデリケートな注意力を要します。総合した動きと試行によって各人が持つ「音楽」が空間へと解放されていきます。
個々の部位の動きは、私の拙い文章能力ではとても表しきれませんが、腕全体としては大きな車輪をイメージして(あくまでもイメージです)動かして頂けたら、音楽に一つの風を吹き込んでいけると思います。
2011年7月25日