1700年初頭にクリストーフォリの初めてのフォルテピアノ「フォルテとピアノの出るチェンバロ」が作られて70年後あたりから、フォルテピアノは急激な進化・変化をしていました。1780年頃から盛んに生産されて庶民の間にも広まりはじめ、1800年代には音域の拡大や重厚な作り、アクションの改良など様々な工夫と趣向をこらした楽器が次々と作られました。
その頃ピアノ音楽を新時代へと進めていたのがベートーヴェン(1770-1827)です。
この大作曲家については数多くの作品と資料がありますからそれらをご覧頂くこととして、ここでは「ベートーヴェンは弦を切りながら演奏するので、弟子が拾い集めなければならなかった」というエピソードについて少々書いてみましょう。
原因がなければ弦は切れない
現在私たちが手にできるフォルテピアノやモダンピアノは、どんなに強烈な演奏をしても、よほどのことがない限り演奏だけで弦は切れません。
もちろん弦が経年変化で疲労している状態だったり、何かの衝撃で傷がついていたり、無理な力が加わったりしていれば、切れることがあります。
私はモダンピアノの弦を3本以上(何本だったかはよく覚えてません)は切っています。けれどそれは、大学の練習室にあったぼこぼこのグランドピアノで、プリペアード(楽器の中に手を入れて、指や金属片や木片などによって直接弦を鳴らす)なども頻繁にされていた楽器とか、老人ホームに寄付された見かけは立派なアップライトで、しかし中から数年前に天国へと旅立ったネズミが出てきた楽器とか、そんな感じの何かしらの原因をすでに持っていた楽器でした。
フォルテピアノでは切れる頻度は上がりますが、それにしても何か原因があるものです。やはり時間経過による金属疲労とか、コマの部分との摩擦とか、調律の際とかです。演奏中に切れるとしてもそれらが原因でしょう。
「ベートーヴェンにあやかって私も熱のこもった演奏をして弦を切りまくりたい!」と、一瞬いたずらな挑戦魂が燃える気も致しますが、現実的にはほぼ無理なことのようです。
刀鍛冶の鋼づくり
さて、話が大幅に飛びますが、日本には「刀鍛冶」という伝統の技術がありますよね。刀はもともと砂鉄から作ったそうですが、1600年代頃からは鉄鉱石を溶かして「折り返し」と言う、お菓子のパイ生地を作るような工程を経て玉鋼(たまはがね)を作っていったそうです。
後ほど、この刀のお話と、弦のお話に接点が出てきますので、お楽しみに。
低炭素鋼から高炭素鋼へ
ということで弦のほうに戻りますが、1820年頃より前はチェンバロなども加工のしやすい真鍮や銅の線とともに何割かだけが鉄弦という状態でした。加工のしやすさが基準のため、鉄の中に炭素があまり含まれていないものを使っていました。実際に鉱石を見ると明るめの灰色という感じです。しかしこれは強度に於いてもかなり低いレベルの弦でした。
1700年代の産業革命とともに徐々に金属加工技術が高くなり炭素を多く含んだ高炭素鋼が造られるようになりました。加工や細工がしにくいという点も克服し、鋼の固まりから線に伸ばしていくことができるようになりました。それが楽器の弦として定着するのが1850年ごろ、スタンダードになるのは1800年代後期ということです。
現在海外から入手できる楽器用の「歴史弦」という鉄弦があります。それは手で打ち伸ばした物でも1850年以降のタイプしかありません。その後も年代によって不純物の含有率が少ないタイプがいくつかあるのですが、基本的に高炭素弦のみということになるわけですね。1850年以前の低炭素弦は再現しても製品として販売するのは難しいのでしょう。
高炭素鋼の製造と加工
さて、日本の誇る刀鍛冶は、匠の目によって鉄鉱石から高炭素の部分を割り出し、集めて溶かして流して、柔かいうちにたたんで、また熱くしてはたたんでというのを繰り返し、塊を造っていきます。その後、私たちがよく知っているトンテンカンと叩き「焼き」を入れてジュッ…という作業になるのです。叩くときに火花が散りますよね。あれは鉄の中の不純物が飛び散るのだそうで、純度が高く強い鋼が出来るのだそうです。
産業革命が起きた時代、ヨーロッパでは加工技術の進歩により高炭素鋼を伸延する方法が生まれ、方や日本ではその100年前ぐらいから匠の眼力と技とで高炭素鋼と打ち伸ばし技術を極めていた。「高炭素鋼」つながりということで論じてみましたが、日本人ってすごいですねぇ。
高炭素鋼の弦の安心感
ベートーヴェンが弦を切りまくって演奏したというのは本当なのでしょう。弟子は大変だったでしょうねぇ。演奏会でもステージの上で拾い集めたようですよ。
私たちはそのような経験は無い(笑)のですが、ベートーヴェンの楽器は低炭素鋼の弦が張ってあったからこそ、切りまくることができたのですね。
私たちが力づくで今の高炭素鋼の弦に向かって行っても切れることはありません。だからこそ安心して演奏できるのですからありがたいです。
ベートーヴェンにも教えてあげたかったですね。
そしてやっぱり…低炭素鋼の音を聴きたいし、その弦を切ってみたいなぁ(爆)
ちょっといたずら心がくすぐられるエピソードでした。