-
最近の記事
サイト内検索
記事の管理
ドゥシークの功績
ピアノ使いの巧みな作曲
J.L.ドゥシーク(1760~1812)には前回記しましたように品行がよろしくない部分があったにせよ、彼のピアノセンスには目を見張るものがあります。
彼はフランス革命時1790年にロンドンに逃れました。その後の10年間のロンドン滞在中に、ハイドンとザロモン演奏会で共演し好評を得るなど、ピアノの名手としてまた教師としてめざましい活躍をしました。この間にハーピストのソフィア・コッリと結婚していたのですね。
彼の演奏は、作曲から伺えるように正確な演奏技術と歌うような美しいレガート奏法を持ち合わせていました。
作曲作品としてはハープ曲、ピアノ曲が多数あります。ピアノ曲は15曲のコンチェルト、28曲のソナタとそのほかに多数の小品があります。ピアノトリオ、ヴァイオリンやフルートの曲、歌曲なども作曲しています。その音楽はある程度のパターンがあるにせよ、斬新な響きが随所に聴こえ、細かなアーティキュレーションの変化、厚みのある和音と単音部分の巧みな対比などが光ります。ロマン派の到来を予感させるような情感豊かな響きもあります。近年では、ベートーヴェンに影響を与えたという方向で彼の音楽の見直しをする動きもあるようです。
実は、私がモダンピアノで彼のピアノソナタを弾いていた頃は、恥ずかしながら全く興味の持てないつまらない曲だと思っていました。それがフォルテピアノ、特に昨年完成した初期ブロードウッド・ピアノに出会ってから、作品に対する認識が変わりました。曲自体が現代に流行できるかどうかはともかく、初期ピアノをどうやって弾くのかということを彼の曲が解説してくれているように思えます。楽器と作曲家の相乗効果で歴史を進めたドラマティックな瞬間が、この曲たちにはあったと言えるでしょう。初期ピアノでこの曲をはじめて弾いたとき、私は鳥肌が立ちました。
ドゥシークとブロードウッド社
イギリスのピアノメーカーの一つであるクレメンティ社の宣伝を担った音楽家に、ノクターンで有名なジョン・フィールドがいます。作曲家のクレメンティの弟子であり優秀なピアニストであったため、クレメンティ社のピアノを広める重要な役目を果たしました。かたやブロードウッド社はというと、ハイドンやベートーヴェンに楽器を贈ったことで有名ですが、初期の楽器の発展にはドゥシークが深く関わった経緯が残っています。1790年ごろまでは5オクターブ、1800年代最初まで5オクターブ半のフォルテピアノを作っていたブロードウッド社に、ドゥシークは6オクターブの楽器を作るように強く交渉しました。音も強く頑丈な楽器を作るように要求したのです。彼はブロードウッド・ピアノを効果的に演奏し、甘いマスクと音楽で女性のみならず男性までも虜にしていきました。
ベートーヴェンに贈られた最新式ブロードウッド・ピアノはエラール社製のピアノより4度下のCCから始まる6オクターブの音域を持つ楽器でした。ベートーヴェンはこの低音が深く響くブロードウッドを大変喜びました。ロンドンから海を渡り、馬に引かせて山を越えてベートーヴェンの許に届けられたその楽器には、ドゥシークのピアノソナタの楽譜が添えられていたそうです。
ドゥシークのもう一つの功績
現代の私たちはピアノのコンサートといえばステージの中央にピアノが横向きに置いてあって、演奏者の横顔が見える角度で演奏することを当たり前だと受け止めていますよね。実はこのスタイルを確立したのがドゥシークだと言われています。ではそれまではどうしていたのかと言うと、まず通奏低音を担当していたチェンバロの場合は、指揮者席にお客様に後ろ向きになって演奏する位置。また横向きの場合はアンサンブルのメンバーがまわりを囲んでいてあまり露出しないような位置です。ソロを演奏する人でも、アンサンブルの曲を同時に演奏していればそのまま指揮者位置。または部屋の片隅に斜め横向きというような格好だったようです。正面中央に堂々と横向きにピアノを置いて演奏するのは、ドゥシークの美しい横顔を際立たせるためだとか。
ピアノという楽器は鍵盤側よりもテール寄り(細い尻尾の方)がいい音がするとか、アンサンブルよりもソロ楽器として使用されることが増えたとか、当然それなりの音楽的理由もあったものと想像しておりますが、話しとしてはもっぱら彼の横顔の美しさゆえということで伝わっています。それほどの美男子かどうかは、皆様のご判断におまかせしますが…。
2011年5月2日
J.L.ドゥシークという人物
ドゥシークの名前
「J.L.ドゥシーク」(1760~1812年)は、ドゥシェックやドゥセックなどと発音され、30年ほど先に生まれてモーツァルトとも交流のあった「F.X.ドゥシェク」と混同され間違われることが多々あります。一般に良く知られているソナチネ・アルバムに入っている「ドゥシェック」は、今話題にしている「J.L.ドゥシーク」のことです。
チェコ語の読みを正しく認識しないでつけてしまった訳語が、そのまま慣習となっていたのです。ほかの作曲家や標題においても最近になって正しい訳語や発音がつけ直されることが多くなりました。間違いが正されていくことは好ましいことです。
各地を転々としたドゥシーク
ドゥシークは1760年に東ボヘミアで生まれ、転々と所在を変えた後、1812年にパリ郊外で亡くなった音楽家です。彼は地元で勉強した後プラハで哲学や神学を学び、次にネザーランドへ。さらにハンブルクのエマヌエル・バッハのもとへ行き、ベルリンのフリードリヒ二世の宮廷にも登場。その後ぺテルスブルクも訪れています。それからパリのヴェルサイユ宮殿へ。マリー・アントワネットの前でも演奏して、旅行に随行するほど重用されます。フランス革命が起こると宮廷や貴族とのつながりを持っていたことから処刑されることを恐れてロンドンへ逃げて行きます。それからドイツ、故郷のボヘミア、再びパリへとめまぐるしく居を移し、落ち着くことはありませんでした。
スキャンダル
各地で音楽教師、作曲家、オルガニスト、ピアニストとして活躍しており、旅回りの演奏家というようなこともしていたようです。見た目の良さは今で言う「イケメン」で、ナルシストな面や社会秩序を顧みず少々自由すぎる性質も持っていたため、スキャンダルは枚挙にきりがありません。
その一つをご紹介しましょう。あまり楽しい話しではありませんけれどね。
J.B.クルムホルツというハーピストでありハープの作曲家でもあった人がいました。そのクルムホルツの若い奥さんをドゥシークが寝取ってしまい、フランス革命から逃れてロンドンに行く時に連れ立って駆け落ちしてしまったのです。それを悲観して夫であったクルムホルツはフランス革命の最中にセーヌ川に身を投げて自殺したのだと言われています。
そしてロンドン生活に慣れた頃、彼女――ロンドンまで着いてきてくれたクルムホルツの奥さん――を捨てて、今度は別の若い女性と結婚してしまいます。楽譜出版業を起こそうとしていたコッリという人の娘でハープ奏者のソフィアという女性でした。そして義父であるコッリと出版業を共同で経営していくのですが10年ほどで事業は失敗。すると妻子を捨てて一人でドイツに逃げて行ってしまいました。その後、義父のコッリは債務不履行の罪で牢獄につながれてしまうという悲惨な目にあいます。
逃げてしまったドゥシークは、義父と同じ罪で捉えられることを恐れて、二度とロンドンには帰って来ませんでした。その後は結婚はしなかったようですが、各地で男女を問わず浮名を流すという具合だったそうです。
ちなみに、妻であるソフィア・コッリは、その後作曲家としてまたハーピストとして活躍し、現在も作品が残されています。
晩年
ドイツに渡ったドゥシークでしたが大きな成功もできずに一旦郷里へと戻ります。後にプロシャの皇太子の宮廷に迎えられ、しだいに寵臣として皇太子と共に行動するようになります。しかし、後見人でもあったその皇太子は、ドゥシークとともに赴いたナポレオン戦争で1806年に亡くなってしまいました。その死を悼んで書かれたピアノソナタOp.61は代表作の一つです。
その後、また別の皇太子に少し仕えてからパリに戻りました。1808年(48歳)以降は演奏から遠ざかり作曲と出版に専念していました。1812年パリ郊外で亡くなる頃には病弱で、急激に老けこんで52歳の生涯をとじました。
ソナチネで名前は知っている作曲家でしたが、このような波乱の人生があったのですね。
次に、彼の音楽について書きたいと思います。
2011年4月29日