ドゥシークの名前
「J.L.ドゥシーク」(1760~1812年)は、ドゥシェックやドゥセックなどと発音され、30年ほど先に生まれてモーツァルトとも交流のあった「F.X.ドゥシェク」と混同され間違われることが多々あります。一般に良く知られているソナチネ・アルバムに入っている「ドゥシェック」は、今話題にしている「J.L.ドゥシーク」のことです。
チェコ語の読みを正しく認識しないでつけてしまった訳語が、そのまま慣習となっていたのです。ほかの作曲家や標題においても最近になって正しい訳語や発音がつけ直されることが多くなりました。間違いが正されていくことは好ましいことです。
各地を転々としたドゥシーク
ドゥシークは1760年に東ボヘミアで生まれ、転々と所在を変えた後、1812年にパリ郊外で亡くなった音楽家です。彼は地元で勉強した後プラハで哲学や神学を学び、次にネザーランドへ。さらにハンブルクのエマヌエル・バッハのもとへ行き、ベルリンのフリードリヒ二世の宮廷にも登場。その後ぺテルスブルクも訪れています。それからパリのヴェルサイユ宮殿へ。マリー・アントワネットの前でも演奏して、旅行に随行するほど重用されます。フランス革命が起こると宮廷や貴族とのつながりを持っていたことから処刑されることを恐れてロンドンへ逃げて行きます。それからドイツ、故郷のボヘミア、再びパリへとめまぐるしく居を移し、落ち着くことはありませんでした。
スキャンダル
各地で音楽教師、作曲家、オルガニスト、ピアニストとして活躍しており、旅回りの演奏家というようなこともしていたようです。見た目の良さは今で言う「イケメン」で、ナルシストな面や社会秩序を顧みず少々自由すぎる性質も持っていたため、スキャンダルは枚挙にきりがありません。
その一つをご紹介しましょう。あまり楽しい話しではありませんけれどね。
J.B.クルムホルツというハーピストでありハープの作曲家でもあった人がいました。そのクルムホルツの若い奥さんをドゥシークが寝取ってしまい、フランス革命から逃れてロンドンに行く時に連れ立って駆け落ちしてしまったのです。それを悲観して夫であったクルムホルツはフランス革命の最中にセーヌ川に身を投げて自殺したのだと言われています。
そしてロンドン生活に慣れた頃、彼女――ロンドンまで着いてきてくれたクルムホルツの奥さん――を捨てて、今度は別の若い女性と結婚してしまいます。楽譜出版業を起こそうとしていたコッリという人の娘でハープ奏者のソフィアという女性でした。そして義父であるコッリと出版業を共同で経営していくのですが10年ほどで事業は失敗。すると妻子を捨てて一人でドイツに逃げて行ってしまいました。その後、義父のコッリは債務不履行の罪で牢獄につながれてしまうという悲惨な目にあいます。
逃げてしまったドゥシークは、義父と同じ罪で捉えられることを恐れて、二度とロンドンには帰って来ませんでした。その後は結婚はしなかったようですが、各地で男女を問わず浮名を流すという具合だったそうです。
ちなみに、妻であるソフィア・コッリは、その後作曲家としてまたハーピストとして活躍し、現在も作品が残されています。
晩年
ドイツに渡ったドゥシークでしたが大きな成功もできずに一旦郷里へと戻ります。後にプロシャの皇太子の宮廷に迎えられ、しだいに寵臣として皇太子と共に行動するようになります。しかし、後見人でもあったその皇太子は、ドゥシークとともに赴いたナポレオン戦争で1806年に亡くなってしまいました。その死を悼んで書かれたピアノソナタOp.61は代表作の一つです。
その後、また別の皇太子に少し仕えてからパリに戻りました。1808年(48歳)以降は演奏から遠ざかり作曲と出版に専念していました。1812年パリ郊外で亡くなる頃には病弱で、急激に老けこんで52歳の生涯をとじました。
ソナチネで名前は知っている作曲家でしたが、このような波乱の人生があったのですね。
次に、彼の音楽について書きたいと思います。