日本ではピアノやヴァイオリンなどの楽器演奏を習う子供たちは数百万人もいるのだそうです。それに相応した先生の数も相当なものでしょう。数百万人もの人々がそのように切磋琢磨して精進しているとは本当にすばらしいことですね。
そこで、そのすばらしさの中で少し考えていただけたらと思うことを今回は書きます。
奏法についての一考
先生の数が相当数いるとなると、奏法や練習方法も人数分あると言っていいでしょう。そうしたら、いったいピアノってどう弾けばいいの?という疑問がわいてきませんか。
かつてヨーロッパの先人たちは、チェンバロからピアノへという変化にしたがって様々な演奏スタイルを生み出してきました。指を鍵盤に付けたり離したり、腕を使ったりと楽器と楽曲に従って演奏方法を変えながら現代へと向かってきました。
現在私達が行っている演奏方法はF.リスト(1811-1886)からの流れを汲むものが主流で、ステージ上ではドゥシーク(1760-1812)が始めた横向きの姿で演奏します。もちろんこれには枝分かれがあり、ショパン(1810-1849)の流れ、ドイツスタイル、フランススタイル、イタリアン的な…とかいろいろあります。クラヴィコードも弾いていたショパンはとても良い先生でしたので弟子も多く、その流れは私の年代以上の人ならば比較的リアルに感じられるかもしれません。チェンバロ時代のドイツ、フランス、イタリアンという楽器の違い、地域による曲想の違いに合わせた奏法の名残も存在しています。しかし大きく括って、ピアノのパフォーマンス性はF.リストが築いた方法に大体含まれていると言えるでしょう。ベートーヴェン(1770-1827)が亡くなった後に、彼のピアノを所有したのがF.リストですが、前にも書きましたように、この時代(1850年代以降)に弦の性能が飛躍的にアップして、切れない弦、そして鋳物のフレーム(チッカリングが1840年に特許申請)へと楽器が進化しました。ですからちょうどF.リストが活躍した頃に現在のピアノの形が安定してパフォーマンス性が確率し、その後の発展の礎になったと言えるでしょう。
そして日本では、「脱力奏法」とか「重力奏法」とか「ハイ・フィンガー」だとか…音楽学校創始者たちの世代、ピアニストが留学した先で特に目立つ特徴のある奏法を持ち帰り、ピアノはこう弾くべきという、いくばくかの権威と限定的な保守性を伴った言動によって、排他的な縛りを強いていた時代がありました。けれども今やその縛りの限界に達しました。
現在の日本には世界でも例を見ないことですが、初期鍵盤楽器のイタリアンヴァージナルから、クラヴィコード、チェンバロ、フォルテピアノ、パイプオルガン、モダンピアノその他特殊な鍵盤楽器まで、それらすべての楽器製作者と現物の楽器が揃っています。なんと凄いことでしょうか!!
それぞれの楽器の音から導き出される音楽、そして音楽から導き出される奏法という考え方に基づかないと、説得力を持たない時代がやってきました。
音にふさわしい弾き方
音に相応しい奏法とは言っても、実は言葉で書くのはとても難しく感じます。敢えて書いてはみますが、不足の部分はどうかお許しください。
それでは、どうやって音に相応しい弾き方を導き出してくるのかというと、まずは「音」に注意深く集中すること。そして「音楽」を捉えて新たな創造をする力を養うことです。これは「楽譜の読解力」を鍛えることです。そして、基礎的な指の訓練。これは細かい筋肉や部分の一つ一つの動きと力加減を繊細に感じ、動く訓練です。
独創性や想像力が重要な音楽の中にあって、一見矛盾していることを言うようですが、基礎練習は非常に大切です。自分としての「標準」と「対応力」を作っておかないと、音楽がひらめいたときにすばやい反応ができないのです。私もかつて脱力だとか指だけで弾かないとか指だけで弾けとか重力をかけるとか…、右往左往した経験がありますが、要するに、鍵盤に与える初速度をコントロールできる力配分を身に付ければいいことです。鍵盤楽器のメカニズムを考えればそれは明白です。そしてそれは「●●奏法」とか先生の形とそっくりにというものではなくて、一人一人の筋力と精神力によって個別の形になっていくものです。そのためにも基礎練習は十分積み重ねる必要があると思います。
音楽と技術を結び付けるとき、「楽譜の読解力」によって音楽が求めていることを読み取り「そこにある摂理や感情や音楽的ルールを物理的に表現できる手」の両方を磨きましょう。
それには「見る技術、聴く技術、動く技術、覚える技術、考える技術、創造する技術」などが必要になりますが、はじめのうちはそれぞれを別々に自覚しながら練習するといいと思います。一つのことを目標にしているときには、その他はちょっと棚上げという感じでやっていきます。
こつこつした練習ですが、プライドを持ってこれを積み重ねて行けば、その先に大きな楽しみが待っていることでしょう。
楽譜に忠実に
これもかつて良く言われていたことですが、「楽譜に忠実に」という言葉がありました。楽譜には音価や速度指示など守るべきものがたくさん書いてあります。けれども、いかんせん楽譜は印刷されたツルツルの平面ですから、それをいかに立体にするべきかを考えなければなりません。そして作曲家によって楽譜に対する味付けが異なっている点にも注目しながら立体にするのです。余談ですが、テレビで料理番組を見ていると、作り手によって「塩ひとつまみ」の量がずいぶん異なるように見える時があります。肝心な味の決め手は「作り手の想いと好み」に頼ることになります。音楽にもそのような部分が多いのです。
ベートーヴェンのフォルテやピアノのニュアンスとモーツァルトのそれとは違いますし、アクセントやスフォルツァンド、ディミヌエンドとデクレッシェンドなどに注目すべきシューベルトの楽曲など、作曲家によって記号の意味の深さも変ってしまいます。「楽譜に忠実」というのは印刷どおりにということではありません。そこはずいぶん誤解されて広まってしまったのだと思います。もっと「この楽譜はこう読んで、こう立体にするべき」というやり方が浸透してほしいものです。
音符をまとめて読めるようなことも必要ですが、このような作曲者特有の信号の使い方を読み取ることも「見る技術」「楽譜の読解力」に含まれ、大いに発展させる必要があると思います。
それぞれの技術を個別にしたり統合したりしながら練習を進め、音楽に相応しいとはどういうことかを探り出して行かねばなりません。
5本の指をほぼ均等に使えるように、あるいは1本ずつの個性を出せるようにした上で、取り組む1曲を多種多様なタッチを駆使して演奏するのです。そのための指から腕や肩までの筋肉の使い方や、それを支える体全体の使い方を考え「動く技術」を養いながら、作曲家が創作してくれたすばらしい音楽を再考して、歴史のひとこまである自分独自の音を奏でていけるように、数百万人の人々とともに前を向いていきましょう。